ウィリアム・ラッド
Ladd は、ダニエル・ラッド(Daniel Ladd, Sr)の直系子孫として、ニューハンプシャー州エクセターで生まれた。 (1613-1693). 1797年にハーバード大学を卒業後、ニューハンプシャー州ポーツマスから地元の商人である父親の船で船員として出発した。 20歳にしてニューイングランドの有能な船長となり、世界の多くを見てきた。
いかなる目的の戦争も信じない彼は、1812年戦争が勃発し、イギリスの封鎖が一時的に通商を停止させると、陸上生活者に転身した。 メイン州マイノットに移り住み、豊かな農民となり、舌とペンを使って無抵抗主義を説いた。 1823年、メイン州ポートランドの『クリスチャン・ミラー』誌に「平和と戦争に関する32のエッセイ」を発表し、キリスト教的平和主義を説いた。 これらのエッセイは、1825年に『The Essays of Philanthropos on Peace and War』というタイトルで本として偽名で出版され(Portland, ME: Shirley & Edwards)、1827年には改訂・訂正版の第2版が出版された(Exeter, NH: J. T. Burnham in behalf of the Exeter and other peace societies)。 その後のエッセイでは、奴隷貿易や、マサチューセッツ州チャールスタウンにあるバンカーヒル記念碑を戦争の記念碑として掲げることを批判した。
1820年代にはすでに州や地域の「平和協会」が存在していたが、1828年にラッドを初代会長とする「アメリカ平和協会」が結成された。 第1回会合はニューヨークで開催された。 ラッドはメイン州マイノットの自宅で、協会の新聞『平和の前触れ』(後の『カルメット』)を執筆・発行した。 1837年、ラッドの影響力とボウディン大学学長ら他のメンバーの反対により、アメリカ平和協会の会則は、すべての戦争はキリスト教の福音に反すると宣言するよう修正された
1840年にラッドは、後の国際連盟や国連にやや似た世界会議と国際裁判所の計画を提案した。 彼はAn Essay on a Congress of Nations (1840)を出版した。 その前年、イギリスとの国境紛争、いわゆるアロストーク戦争により、故郷のメイン州で軍備が増強されたことも影響していた
Ladd is buried in Portsmouth, New Hampshire