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心が重いとき

2017年10月13日

心が重い季節がやってきました。 それがどこから来るのか、私は知っています。 私には、若くして命にかかわる病気と向き合っている姪がいます。 自分自身の病気やトラウマ、困難な状況の泥沼を歩いている友人や同僚がいます。 そして、日々のニュースでは、ハリケーンが地域を破壊し、10月2日には、単なるコンサートが10分間の恐怖となり、生死を分けることになった銃乱射事件など、人間の苦しみが絶え間なく続いています。 世界の痛みに対して冷淡になったり、圧倒されたりすることなく、どうすれば世界の痛みを受け入れることができるのでしょうか。
そして、もしそれが十分でないなら、これらすべては、今私たちの国と宗派が抱えている、自由に漂う不安という状況の中で起こっています。 私たちはどうなってしまうのでしょうか。 分裂と議論、そしてブログやツイートの決闘の中で、ドラマに巻き込まれるのは簡単です。 未来がどうなるかはわかりませんし、地面が不確かで予測不可能な状況では、計画を立てたり準備したりするのは難しいのです。 私自身の生活で気づいたことのひとつに、睡眠不足のときは、より感情的になり、よりせっかちになり、困難な状況に対処する能力が低くなるということがあります。 今の時代は、常に睡眠不足の状態で生きているような気がしてならない。 私たちは一体どれだけ耐えられるのでしょうか。 そして、休息や憩いがなければ、回復力は枯渇してしまうのです。 それゆえ、喪失や病気や悲しみといった人生につきもののことに対処しているとき、私の重い心はさらに重くなるのです。 そして、私の叫びはこうなります。 主よ、いつまでですか」

あなたがたの心を騒がせてはならない。 あなたがたは神を信じる、わたしも信じなさい・・・わたしは平和をあなたがたに残す、わたしの平和はあなたがたに与える。 わたしは、世が与えるようなものをあなたがたに与えない…。 心を騒がせてはならない、恐れてはならない。 -ヨハネ14章(NIV)

この言葉はよく知られており、葬式でよく読まれます。 いい言葉だと思いませんか? しかし、イエスは本当に私たちが決して重い心を持つなというのでしょうか。 私は、重い心と悩む心には根本的な違いがあると思います。 悲しみは人間の存在の正常な部分です。 私たちが人々や世界に対して心を開くとき、私たちの心は傷つきやすくなっています。 それは壊れる可能性があります。 悲しみの重みを感じるでしょう。 また、喜びの跳躍を経験し、愛で破裂することもあるでしょう。 これこそが、私たちを人間らしく、つながりや思いやりのある存在にしてくれるのです。 互いに心を開くことを望むとき、私たちは共に前進する道を見つけることができるのです。 重い心とは、深みにはまることをいとわず、その中に神がいてくださることを信じる心である。 それは、人生の厄介な感情に対して自分自身を開くこと、他の人に手を差し伸べること、リスクを取ることを望まない、恐怖の場所へと私たちを導くものである。
では、心が重く、悩みの種になりつつあり、イエスが約束している平安に必死につながなければならないと感じるとき、私はどうしたらよいのでしょうか。 できれば森や水辺を散歩します。 歩くと、私は呼吸ができます。 私の周りにある美しいものに目を向けることができます。 私は神の創造の長い弧に接続され、私はこれが – 私が経験しているものは何でも – 一瞬であり、物語のすべてではないことを思い出しています。 もっとあるのです。
Mary Oliverの詩「When I Am Among the Trees」は、私の詩となりました。 ここで聴いてみてください。
これは私の人生を物語っています。 私たちはこのためにこの世に生まれてきたのです。楽になるために、光に満たされるために、そして輝くために。 だから、私の友人たちよ、心が重くなるこの季節に、気楽に行こう。 自分にも他人にも優しくしてあげてください。 創造と生命の根源的な善に満たされるような散歩に出かけましょう。 そして、理解しがたい悲劇の中にあっても、暗闇に屈しないようにしましょう。 最近、ニュースを聞くのも嫌になり、心が押しつぶされそうになり、何をしたらいいのかわからず無力感を感じたとき、神と祈りの力を信じる忠実な合同メソジストたちが編んだ毛布をまとめて、姪に送りました。 小さな、簡単なことです。 大したことではありませんが、私は何かをする必要がありました。 それが、そのとき私にできることだったのです。
あきらめず、屈せず、大小にかかわらず、自分にできることをするとき、人はこうして輝くことができるのだと思います。 そして、そうすることで、自分の心が少し軽くなり、もしかしたら、他の人の心も軽くなるのかもしれません。 そして、私たちは、神から来ることを知っている優しい平和をもう一度味わうのです。 そうでありますように。
シンディ・グレゴソン師は、合同メソジスト教会ミネソタ年次大会のミニストリーディレクターです。