ポイントがすべてだった。 第二次世界大戦後の米軍復員
この制度は1944年9月に発表され、ヨーロッパでの戦争が終わるとすぐに、戦地の兵士たちは自分のポイントの合計を計算し始めた。 1944年9月に発表されたこの制度は、ヨーロッパ戦争が終わると同時に、同地域の兵士たちが帰国するために必要な合計点数85点をいかにして達成するかに腐心し、足し算、引き算を繰り返した。 有名なアメリカの兵士であり戦場記者でもあるビル・モールディンは、海外から帰還したばかりのアメリカ兵が自分の子供を初めて迎え、「素晴らしい小さな12点のラスカル!」
海外の兵士たちは、どの部隊がどのキャンペーンで評価を受けるかという公式発表を細かく追い、自分と自分の部隊が表彰されるニュースを心待ちにした。 戦時中、前線の兵士にとってメダルは比較的小さな意味を持つものであった。
兵士はポイントを計算すると、それを将校に証明してもらい、再任命の知らせを待ち望んだ。 ヨーロッパに存在する第82空挺師団のような高ポイントの兵士の割合が多い師団は、師団内の低ポイントの兵士が他に移され、他の部隊から長期勤務の兵士が師団に移された後に帰国させられた。 ヨーロッパと太平洋で必要な兵士の数の陸軍の見積もりが徐々に下方修正されるにつれて、必要なポイント合計も徐々に引き下げられた
ポイントシステムは単純で、その作成者は公平さを志していたが、海外の兵士からはかなり悪評を買った。 歴史家のワルド・ハインリクスとマーク・ガリッキオは、理論的にはこのシステムは「退役軍人を除隊させ、太平洋でさらなる奉仕を求めるべき人々を特定するための極めて公平な手段」であったと書いている。
キャンペーンと必要なポイント合計に関する矛盾した情報に加えて、兵士たちはこの制度に他の欠点も見出していた。 2年以上海外にいた兵士は、新しく来た父親が、生まれたばかりの子供に多くのポイントを与えられることに憤慨していた。 子供のいない兵士は、もし自分が2、3年前にアメリカにいたら、自分も父親になっていたかもしれないと不満を持っていた。 アンダーソン二等兵は、「私は28ポイントしか持っていないので、家に帰れる可能性はあまりない」と妻に書いている。 子供が3人くらいいればよかったんだけどね。 そして、”次回はもっとうまくやるぞ “と冗談交じりに付け加えた。 また、戦闘兵は、戦闘の苦労や危険に耐えていない後方梯団員が、戦闘兵と同じくらい海外滞在の点数をもらっていることに腹を立てていた。 太平洋戦争は資源を優先するため、兵士が必要なポイント数を持っていても、帰国させるための船が空くまで待たなければならないことがしばしばあった。 月日が経つにつれて、兵士たちは次第に意気消沈していった。 ドイツにいたラフテリー軍曹は、1945年7月、「ここでの生活は、なんと単調で無意味なものになったことか」と嘆いている
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